日常のちょっとしたズレから、想像もしていなかった瞬間へ

interviewee 森山未来

──企画を聞いた時の感想は?

また無謀なことをされるなあ、と。そもそも僕は振付をしたこともないし、振付家を目指しているわけでもない。客観的に考えて、僕にオファーをしようとする人はいないですよ……でもそういうことをやりそうなんですよね、マキバンバン(森下真樹)って。なにをしでかすかわからないという意味では想像の範囲内です(笑)
ただ、僕はいわゆる「振付」をするというのはそもそも苦手。自分で演出をする時も、作品の構成を決めたら、振りは即興になりがちなんです。それでもやってみようと思ったのは、踊るのがマキバンバンだったからかも。2013年の『100万回生きたねこ』で共演した時からの気兼ねない仲ですし、彼女はそこにいるだけで成立する人。そんな人になら僕がどんな振付を渡しても大丈夫かなと思ったんです。

──第二楽章の曲のイメージは?

とてもつかみどころがない音楽の構成ですね。躁鬱のある曲で10分という長さのなかで浮き沈みが激しい。でも、なんとなく森下真樹さんという人間と共鳴するものを感じました。というのも、彼女は突然なにかを始めたりするんですよ。いつも穏やかなのに、いきなり「私、ものすごく言いたいことがあるんです!」と興奮したりする。本人の中では何か流れがあるんでしょうけど、こちらとしては唐突に感じる。その唐突さが、今回の振付のイメージとも結びついています。

マキバンバンの唐突さは、日々の積み重ねがあってある瞬間にバン!と外に出たものじゃないかなと思って、振付するにあたって日常的な動きを書き出してもらいました。そのなかで、コーヒーのエピソードが面白かった。彼女は、朝コーヒーを飲むのが習慣で、毎日豆を挽くんだそうです。で、お湯を淹れて蒸らしている間に別のことをしていたら、その間にコーヒーが冷めてしまった。それを電子レンジで温めたら熱くなりすぎてしまい、冷ましている間に別のことをしていたらまたコーヒーが冷めたので、結局アイスコーヒーにしちゃったと(笑)そんな日常生活のズレが重なって、突然「もうやだ!」みたいに発奮される瞬間があるんじゃないかな。
楽曲はそんな瞬間ばかり 。とても穏やかなところからすごく激しいところまで温度が急上昇するんです。とても振り幅の広い楽曲です。

──第二楽章振付のテーマはありますか?

“求愛ダンス”です。前にとある学者さんから聞いたんですが、鳥のオスが羽根をバサバサと広げてメスに求愛行動をするのは、“マイクロスリップ”の延長だという説がある。マイクロスリップというのは、目的を持って行動しはじめたのに、なんらかの要因で少しずつ別の動きにスリップしていってしまうズレのこと。本来、羽根は飛ぶためにあるのに、少しずつズレが重なっていまや飛ぶための動きではなくなったのが求愛ダンスだとすると、そのことと、日常のちょっとした行動のズレが積み重なってまったく別の動きに変化するという振り幅の広さが重なり、第二楽章のイメージともが繋がりました。

──振付に初挑戦してみていかがですか?

マキバンバンはどんな動きを指示しても、ぜんぶ一生懸命やってくれるのでありがたいです。僕が妄想する「森下真樹」像を彼女自身がデフォルメして、さらに楽曲がそれをアンプリファイ(拡大)するという、面白いことが起こっている。
ただ、振付をした、という感覚はないんですよね。そもそも、なにからどこまでが“振付”なのかは人によって考え方が違うでしょうし……。基本的には、マキバンバンとコミュニケーションをとりながらつくっていて、彼女ができることしかやりません。10分間の第二楽章をどんなふうに見せようかという考えもありますが、ぜんぶが僕の想像どおりになると面白くない。マキバンバンが踊るなかで、僕が計算していたうちにはないものが出てきたらいいな、と。観客にとっても、想像もしていなかったのに「あ、なんか繋がったな」という瞬間があればいい。

──真樹さんはどんなダンサーさんだと思いますか?

そこに居るだけで成立しちゃう人。表現の世界などでは「子どもや老人には勝てない」と言いますけど、彼らの突発的な自然な動きの魅力は、ダンサーでは表現できない。もちろんテクニックで動きを見せることはできますけど、子どもや老人や動物には、技術とは別の魅力がある。マキバンバンはそれを持っている希有なダンサーです。
それにマキバンバンって、セクシー……な感じがするかと思いきや、そうでもない。でもジェンダーレスだと油断していると、ふいに女性を感じる瞬間がある。すごく不思議な印象を与える人ですね。

──未來さんにとって『運命』とは?

ネガティブでもポジティブでもなく、ただそこにあるだけの大きなもの。僕は主体的な行動も大事にしたいし、能動的であることによって動くなにかがあると信じている。でも選んだつもりでも、その実、それは選ばれているという矛盾した感覚もありますよね。どうにも抗えないものや、出会うべくして出会っているものもあるなと思います。どちらが正しいわけじゃない。
でも実は、その矛盾は両立していると思うんですよ。例えば、舞台や映画の現場で考えると、一人では完結できない作業をやっている。他のスタッフや役者やダンサーたちのことを受け入れずにその場所にいることは不可能です。一緒に作品をつくる人々のことをどういうふうに受け入れながら、自分のやりたいこともやることが、僕が普段やっていること。だから、自分の主張もしつつ、周りも受け入れるということを同時にやっています。熱帯雨林を歩いている感覚ですよ。周りは木に囲まれていて、草があり、動物がいて、太陽が差し、雨も降る……いろんなものがありすぎて、一人では前に進めない。それぞれについて詳しい人たちの声に耳を傾けないと、生きていけないんです。だから自分の進むべき道は絶対に考えていなければいけないんだけど、いろんな声にも耳を澄ましていなければいけない。
そうやって歩いていれば、自分で選ぼうと誰かに連れてきてもらおうと、反発しようと肯定しようと、いずれはどこかに繋がっていく……それが最終的には「運命」という言葉でくくられちゃうのかもしれません。その時には、悲しくも嬉しくもなく、ただあるがままの気持ちでいられたらいいですね。

取材・文・写真 / 河野桃子

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